上田道と川の駅おとぎの里 川中島古戦場史跡公園
2021/5/20~22 2泊3日 走行615km (ページ 4/12) 前のページへ
11:43 上田 道と川の駅 おとぎの里に到着。近くには奇岩の岩鼻(日本百景)や芝生広場がある。岩鼻を登っていくと山頂には千曲公園がありここからは上田市街地を一望する絶景スポットがあり夜景も絶景らしい。行こうと思っていたが心霊スポットらしく2020年にも子供の転落事故が起きているそうで怖いのでやめた。
芝生広場は広くベンチもありたくさんの人がくつろいでいた。ステージもありイベントも行われるらしい。ドッグランもあり地元の人の憩いの場になっていた。
岩鼻の近くまで歩いて行ってみた。
上田 道と川の駅は千曲川、浦野川の自然環境を活かした親水空間である「川の駅」と「道の駅」が一体となった全国で初めての施設。
敷地内はとても広く山や川の景色がとてもいい。
岩鼻の大岩壁は、千曲川の浸食によって削られて生まれたそうで日本百景の一つ。崖の高さは約120mある。岩鼻の近くには大きなカメラを持った人たちが10人ほどカメラを構えていた。野鳥のチョウゲンボウが繁殖しているそうだ。
上田 道と川の駅 おとぎの里に戻る。景色はいいが登り道なので不眠では少しきつかった。
上田 道と川の駅 おとぎの里は左側の建物にお食事処 岩鼻があり、右側の建物に農産物・物販コーナーがある。お食事処 岩鼻に向かった。
お食事処 岩鼻。先客は5組7人程。券売機で県を購入するシステム。店員さんは二人で食券を渡し番号札をもらい呼ばれたら取りに行くシステム。
客席はゆったりで一人でも利用しやすそうだった。
券売機。馬鹿肉を使用した焼きハンバーグカレー(1,300円)や馬肉うどん(700円)が気になる。スタッフの方に言えばペイペイやクレジットカードも利用できる。
ネーミングセンスのいいご当地バーガーの馬鹿バーガー(うましかバーガー)。信州の馬肉文化と、駆除された鹿の命も大切にしようと開発されたそうだ。駆除した鹿の量に寄り販売数が変わるらしい。上田産米粉を練り込んだバンズ で、馬肉と信州産鹿肉の合挽きパティと野菜をサンドしたハンバーガー。小馬鹿バーガー(550円)と馬鹿バーガー(600円)はパティ80gで違いはトマト有りか無し。大馬鹿バーガー(700円)はパティが150gと2倍近くなりお得だ。物販所でも冷凍のパティが売っていた。
馬鹿バーガーを購入し5分ほど待った。作り置きはなく注文を受けてから作ってくれる。馬鹿バーガーは紙袋に入れてくれてテイクアウトできる。(価格は同じ)
5分ほど待ち受け取った。岩鼻と馬鹿のシールが貼られている。
馬鹿バーガーのバンズはふわふわで温かく良い香りが漂う。ハンバーガーは大きめでずっしりしていて某ハンバーガーの1.5倍はある大きさ。
大きな厚切りのトマトにマヨネーズ入り。
トマトの下には味付けされた玉ねぎがたっぷり入っている。鹿と馬肉のパティは癖はまったくなくとてもあっさりした味。米粉のバンズは柔らかく少し甘みがあり美味しくソースの味付けも良い。トマトが肉厚で大きいのは良かったが固くて美味しくなかったのが残念。(外国産?)総合的にあっさり味でインパクトはなかったが素材のバランスも良く普通に美味しかった。価格を考えると体験するには良いかもしれない。
お食事処 岩鼻
営業時間 食事オーダー 11:00~16:00 馬鹿バーガー 10:30~16:00 喫茶メニュー 10:00~17:00 年中無休
隣の物産・物販コーナーに向かった。こじんまりしているがテレビの液体バラエティーたれで紹介された、上田名物の美味だれのじんだれが売っていた。食べるタイプの国産ニンニク漬けなど種類がいくつかあった。冷凍コーナーには馬鹿のハンバーグや馬肉や鹿肉の塊があった。肉の鈴木屋のジンギスカンのたれで味付けされた、猪ジン・鹿ジン・ジンギスがあり癖も無く美味しいらしい。一袋200g位入って900円位。帰りに買おうと思っていたが出費がかさみやめた。また今度。
信州武田の無添加田舎味噌が品替えで570円→300円と安かった?ので購入。信州特産凍み豆腐(500円)を購入。
13:00 川中島古戦場史跡公園駐車場に到着。駐車場は国道35号線沿いに二か所あり普通車は136台ほど止められる。武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な川中島の決戦が行われた場所に開設した公園で、園内には、12,000平方mもの築山状芝生広場、自然石を配した小川などありとても広く平日でもたくさんの車が止まっていた。駐車場前には主に果物や野菜を販売しているお土産店が1店舗だけ営業していて後はシャッターが閉まっていた。
駐車場の左を進むと橋を渡った先に川中島古戦場八幡社がある。橋を渡り右に曲がると長野市立博物館があり、天文(プラネタリウム)・地質・歴史・民俗等の関係資料を展示している。入館料は300円。
鳥居の左側に第4次川中島大合戦図があった。川中島の戦いとは13年の長きにわたり5度行われたが、有名な川中島の戦いは1561年の第4次川中島の戦い(八幡原の戦いとも言う)を示している。武田信玄軍(2万)は茶臼山→海津城に入場し、謙信軍(1万3千)は妻女山に陣をとった。武田信玄の重臣の山本勘助らは、別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である「啄木鳥(きつつき)戦法」を提案し採用され、武田軍の待ち伏せ部隊(本隊8千)は八幡原に鶴翼の陣で布陣し、武田軍別動隊(1万二千)は妻女山への奇襲を開始したが、妻女山からは千曲川一帯が一望できる事や海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知して上杉謙信は、武田信玄の奇襲前に妻女山を密かに脱出。深い霧を利用して、武田軍の待ち伏せ部隊のいる八幡原に布陣した。午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。上杉軍は車懸りで武田軍に襲い掛かり武田軍は防戦一方で重臣の武田信繁・山本勘助・諸角虎定・初鹿野忠次等が戦死。もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ武田の別動隊は別動隊に備えていた上杉軍の殿を蹴散らし、午前10時頃八幡原に到着した。武田軍の本隊は上杉軍の攻撃にまだ耐えていて、別働隊の到着によって予定より遅れはしたが上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった上杉軍は、兵を引き越後に引き返した。この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出し双方とも勝利を主張し明確な勝敗がついた合戦ではなかった。第4次川中島の戦い後に武田軍は討ち取った敵将兵の首実検(論功行賞の為、戦場で討ちとった敵方の首級の身元を確認)し、ここ八幡社境内で勝鬨を上げた。
川中島古戦場史跡公園に武田軍の本陣があった。両軍激突の最前線は、この地から2、3km西方とされ、オリンピック記念スタジアム付近で武田重臣の山本勘助が討死したと伝えられている。
手水舎は蛇口タイプ。
拝殿の正面にある旧社殿の八幡社鞘堂。
旧社殿の後ろには大きなけやきの木。御神木?平日だと誰もいなくとても静か。古戦場跡なこともあり自然豊かで清々しいという気分にはならなく無心状態が続き不思議な感覚だった。
八幡社拝殿。御祭神は誉田別命・建御名方命で創建は山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡として、この地に勧請したと伝えられる。1561年の第4次川中島の戦いの時に武田信玄が八幡原に本陣を構え激戦場になったため社殿は破壊されてしまい、信玄は海津城代高坂昌信に命じて社殿を再建させた。
拝殿左にある執念の石。第4次川中島の戦いの最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭の原大隅が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。苛立った槍は鎧の方を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。
三太刀七太刀の跡の碑があり、上杉謙信は戦況の進展に着目し、乱戦で武田本陣が手薄になったのを見て、旗本数騎を連れ信玄の本営を強襲した。この時の信玄は軍配を右手に持ち、崩れかかる諸隊を激励指揮していた。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼のごとく駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったといわれる。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七箇所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。右に社務所。
拝殿左の方には武田信玄と上杉謙信一騎討ちの銅像。1969年の大河ドラマ「天と地と」の放送記念に建立された。銅像のまわりには「風林火山」・「毘」・「龍」の旗があり、「風林火山」は武田軍の軍旗で孫子の旗とも呼ばれ、紺色の絹布に金泥で書かれ「疾 (はや) きこと風の如く、徐 (しず) かなること林の如く、侵 (おか) し掠 (かす) めること火の如く、動かざること山の如し」という戦における四つの心構えで、風のようにすばやく動き、林のように静かに構え、火の如く激しく攻め奪い、山のようにどっしりと構えて動かない意。
「毘」・「龍」は上杉軍の軍旗で「毘」は上杉謙信が信仰した毘沙門天を意味し、旗と共にあるということは毘沙門天と共にあり、その加護のもとに上杉軍は勇往邁進し勇気を示した。「龍」の旗は乱れ龍を意味し突撃の真っ先に押し立てて進んだ突撃用軍旗。
ガッカリスポットかと思っていたが銅像は等身大サイズで今にでも動き出しそうな位リアルに造られていてものすごい迫力だった。
一騎討ちの銅像の隣には首塚があり、この塚は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ、1561年の第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)の後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6000人余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つ。これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれる。ここから東南へ約180メートルの所にも同じく大きな首塚があり、昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。
13:10 八幡社参拝と一騎打ちの像を見るだけなら所要時間は10~15分程。次は5㎞程先にある川中島の戦いの舞台でもある松代城跡(海津城跡)に向かった。妻女山にも展望台があり行きたかったが道が狭そうで不眠では危険な気がしてやめた。
川中島古戦場史跡公園
住所 長野市小島田町1384-1 駐車場あり(利用時間 3~11月 8:30~21:00 12~2月8:30~17:30)
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